浜名湖地域で浜名湖養魚漁業協同組合の組合員によって
養殖された成鰻を「浜名湖うなぎ」とする

注1) 浜名湖地域とは、浜松市、湖西市の地域を言う。
注2) 養殖された成鰻とはニホンウナギ(Anguilla.japonica)を飼育日数の半分以上育成したうなぎを言う。

うなぎの浜名湖。100年の歴史

江戸時代に書かれた歌川広重の浮世絵『東海道五十三図会』には、新井宿の描写にうなぎのくし蒲焼きが登場しています。

そんな浜名湖で、1897年(明治4年)ごろ、浜名湖の東側にある舞阪町でうなぎの養殖飼育に成功して100余年。
淡水と海水が混じり合う日本最大の汽水湖である浜名湖には豊富な稚魚が集まり、良質な『浜名湖うなぎ』の養殖が盛んでした。

伝統ある浜名湖うなぎをお届けするために、浜名湖養魚漁協は活動しています。

ニホンウナギの種の保存

当組合は「親うなぎ放流連絡会」の一員として、浜松市役所をはじめとした浜名湖周辺の鰻関係者の方々と結託し、毎年放流事業を行っております。
この度、限りある資源を未来に繋ぐため、より一層親うなぎを放流出来るよう浜松市、放流連絡会全体はもちろん、市民の皆様のご協力をたまわりながら「浜名湖発 親うなぎ放流事業」を進めていくこととなりました。

私たちには、鰻を将来に渡って供給していかなければならない責務があります。

皆様の元へ、最高の鰻をこれからもお約束する為の第一歩を、今歩んでおります。

浜名湖発 親うなぎ放流事業とは

日本のシラスウナギ漁が連続で不漁となり、このことで国際自然保護連合(IUCN)ではニホンウナギを絶滅危惧種に指定いたしました。

うな丼やうなぎの蒲焼、日本人が愛してやまないご馳走であり、大切に守るべき食文化です。
この大切な日本の食文化を絶やさないためにも、ニホンウナギを絶滅させるわけにはいきません。
うなぎ養殖発祥の地の責務として、浜名湖発親うなぎ放流連絡会は、平成25年度から継続的に銀化した親うなぎを買い上げ放流する事業を進めております。

私たちの放流した親うなぎが、いつか産卵しそのシラスウナギがまた我が国に来てくれることを祈って・・

浜名湖とうなぎ

1897年(明治30年)ウナギの養殖を最初に行った服部倉次郎が、養殖に関する調査で愛知県に向かう途中、車窓から浜名湖を見て「これはうなぎの養殖に適しているのでは?」とひらめいたのがきっかけで、うなぎ養殖に関する調査が始まりました。

倉次郎の読み通り、浜名湖はうなぎの養殖に大変適した場所だということが分かったのです。 浜名湖は日本で初めてうなぎの大規模な養殖地となりました。 明治から昭和にかけて浜名湖周辺には多くのうなぎの養殖池が作られ、現在に至るまでうなぎの一大生産地となります。

戦争中は他の地域と同様、うなぎの餌が統制の対象となったため生産ができなくなったのですが、戦後は全国に先駆けて浜名湖でうなぎの養殖を再開。 1949年(昭和24年)にはうなぎの養殖を専門とする「浜名湖養魚漁業協同組合(通称:マルハマ)」が設立されました。

これ以降、マルハマの組合員が生産したうなぎだけを「浜名湖うなぎ」とするブランディングを積極的に行ってきました。 「浜名湖うなぎ」は品質を保持するために、独自で養殖方法を確立。
シラスウナギは浜名湖や天竜川河口で採取したもののみを使用し、夏は露地池、冬はハウスで1年以上の飼育を基本としています。

静岡県のうなぎの生産量は1970年(昭和45年)には全国の7割を占めるまでになりましたが、これをピークに安価な中国産うなぎに押されて減少傾向にあります。 しかし安心安全な「浜名湖うなぎ」として、今なお日本中へおいしいうなぎを提供し続けています。

浜名湖がうなぎ養殖に適している理由

服部倉次郎が目を付けた通り、浜名湖はうなぎ養殖に大変適した場所だったのですが、具体的にどんなところが適していたのでしょうか。

理由①豊富な地下水

うなぎの養殖には一年を通してきれいな真水が欠かせません。
養殖に必要な水は、三方原台地の地下400mからくみ上げた水や、浜名湖に湧き出る豊富な天然水を使用しています。
浜名湖に湧き出る水は、天竜川の氾濫によって堆積した砂礫層の間で天然のろ過装置を通ってキレイな真水となります。
これらの水には、うなぎの生育に欠かせないミネラル分が豊富に含まれているのが特徴です。

理由②池作りに適した地形

浜名湖の東側には自然にできた砂の山「浜堤」が重なるように作られています。
この浜堤は天竜川が運んできた砂礫によってはこんできたもの。
浜名湖の東側は低地になっていることから、浜堤と浜堤の間が水はけの悪い場所になっています。
この水はけの悪い場所を利用して、養鰻池が作られました。

理由③シラスウナギが大量に捕れた

浜名湖や天竜川河口では、うなぎの稚魚シラスウナギが大量に捕れます。
元々浜名湖は一部が海と繋がっている「汽水湖」です。

シラスウナギはある一定時期まで海水が混じる汽水域で生育し、大きくなったら川などの淡水域に移動します。
つまりシラスウナギが大きくなるには汽水域が必要で、浜名湖はその条件にピッタリ当てはまるという訳です。

手近でシラスウナギが大量に捕れることで、浜名湖のうなぎ養殖は一層発展しました。

理由④一年を通して安定した気温

浜名湖周辺は年間の平均気温が15度前後と温暖です。
うなぎは温暖な気温でないと大きく育ちません。
浜名湖周辺の温暖な気候が、シラスウナギの成長やうなぎの養殖に欠かせないのです。

理由⑤うなぎの餌が豊富にあった

浜名湖周辺地域や湖西地域では、明治時代から紡績業が盛んで養蚕行われてきました。
うなぎの餌になる蚕が大量に手に入ることが、浜名湖でうなぎ養殖が盛んになった一つの理由になっています。

理由⑥交通の便が良い

浜名湖のうなぎを全国に広めるためには、交通が発達しているという条件が欠かせません。
浜松は東海道のちょうど中間地点ということで、東京や大阪といった大都市圏へのアクセスが良く、道路が発達していたことからうなぎを大量に輸送することが可能に。
物流面での好立地も、浜名湖うなぎを全国シェア7割にまで押し上げた大きな要因です。

うなぎ養殖の歴史

日本でうなぎの養殖が最初に行われたのは1879年(明治12年)のことです。
殖産を生業にしていた服部倉次郎という人物が、東京深川に作った2ヘクタールの養殖池で初めてうなぎを養殖しました。

その後1891年(明治24年)になると、現在の静岡県湖西市の浜名湖付近で原田右衛門が、7ヘクタールの養殖池でうなぎの養殖を開始。
この時の養殖は成功に結び付かなかったとされていますが、これが浜名湖でうなぎの養殖が始まった最初とされています。

1900年(明治33年)には服部倉次郎が、現在の東京海洋大学で共に学んだ中村源左衛門の協力を得て、浜名湖に約8ヘクタールものうなぎの養殖池を創設。
明治の末には養鰻に関する技術が確立し、大正から昭和の時代を経て浜名湖周辺だけでなく愛知県三河地方や岐阜県、三重県や鹿児島県に続々とうなぎの養殖池が作られ、日本各地でうなぎが生産されるようになりました。

太平洋戦争によりうなぎの生産は一時中止となりましたが、戦後になると再び養殖が開始されました。
近年の養殖うなぎの生産量は、2000年から2013年まで鹿児島県、愛知県、宮崎県がトップ3を独占。
次いで静岡県や高知県、徳島県などがランキング入りしています。

ただ日本のうなぎ生産量は2011年をピークに年々減少傾向にあります。
2011年に年間収穫量約2万トンだったものが2013年には1万4000トンにまで減少。

日本養鰻漁業協同組合の最新のデータによると、2020年のうなぎ生産量は全国で1万6887トンとなっています。

参考:統計資料-ウナギ生産量|日本養鰻漁業協同組合連合会(http://www.wbs.ne.jp/bt/nichimanren/information2.html

うなぎ養殖方法の遍歴

うなぎ養殖が始まる前は、うなぎの成魚を河川で漁として採っていました。 成魚と一緒に網にかかっていた体長15㎝前後のうなぎの幼魚(クロコウナギ)は商品にならないとほとんどが捨てられていたのです。

これに目を付けたのが、上で紹介したうなぎ養殖の創始者・服部倉次郎です。 倉次郎は捨てられるはずだったクロコウナギを取り寄せ、餌を与えて商品になる大きさにまで自身の養殖池で育てるのに成功しました。

このクロコウナギから育てるうなぎの養殖方法が全国に広まり、昭和初期に入ると今度は極端なクロコウナギ不足が問題になりました。 そこでクロコウナギ不足を解消すべく、当時の農林省水産講習所豊橋試験場で、体長5㎝前後のウナギの稚魚(シラスウナギ)からの生育が開始されたのです。

その後、浜松市出身のうなぎ養殖研究者・村松啓次郎によって、餌の試行錯誤などを繰り返しながらシラスウナギからの養殖に成功します。 しかし寒さが苦手のうなぎは、寒い時期になると水温低下が原因で半分以上は死んでしまいました。

そこで啓次郎は1971年(昭和46年)に、ビニールハウスで池を覆って温室にし、平均25度まで温度を上げる「加温養殖法」を確立。 これにより一年中うなぎに餌を与えられるようになり、通常は成魚にするのに1年半から3年前後かかっていたものが、半年から1年半で出荷できるようになりました。

シラスウナギからの養殖と同時並行するように、うなぎの完全養殖に関する研究も続けられてきました。 養殖したうなぎに卵を産ませる研究は1960年代から始められ、1973年(昭和48年)には北海道大学で世界初のうなぎの人工ふ化に成功。

しかし、それ以降20年間は孵化したうなぎの稚魚「レプトケファルス」から大きく育てることはできませんでした。 民間企業と共同で飼料を開発するなどの研究により、2002年にはレプトケファルスからシラスウナギにまで成長させることに成功します。

事実上、日本ではうなぎの完全養殖化に成功しましたが、実際の養殖に役立たせるにはシラスウナギの大量生産が目下の課題です。 世界規模で天然うなぎの減少が危惧されている今、ウナギの完全養殖化が軌道に乗れば、「鰻」を愛する日本の食文化もこれから先ずっと守られていくことでしょう。

うなぎの一生

うなぎの生態は長い間謎に包まれていました。
しかし最近になってその生態の一部が解明されたのをご存知ですか?

うなぎはウナギ科ウナギ属に属している魚類で、全世界に18種類確認されています。
このうち食用となるのは4種類で、日本にやってくる「ニホンウナギ」もその一つ。

うなぎは2008年から2009年の調査によって、日本から2000㎞も離れたマリアナ諸島の西側の海で産卵していることが分かりました。
産み落とされた卵は海中を浮遊しながら孵化し、体長約3mmの稚魚「レプトケファルス」になります。 二日に1mmずつ成長し続け、体長約60mmの「シラスウナギ」に変態するのです。

シラスウナギの状態ではまだ体は半透明なまま。
黒潮に乗って日本の沿岸に近づくのは、卵から孵ってから3~6カ月後です。
そのあと各河川に遡上して、数年かけて皆さんがよく目にする青黒い色の60~80㎝の長さのうなぎになります。

無事に河川に遡上したうなぎはそこで5~12年ほど過ごし、産卵のためにまた遠いマリアナ諸島付近にある故郷の海を目指すのです。
ただし無事に故郷の海にたどり着けるうなぎはごくわずかだと言われています。

うなぎのように海で産卵して幼魚で淡水に遡上しながら成長し、産卵のため川から海に戻る魚のことを「降河回遊魚(こうかかいゆうぎょ)」といいます。
海の方が稚魚の餌になるプランクトンが豊富なことから、海と河を回遊していると考えられています。

しかしうなぎがなぜ日本から3000㎞も離れた西マリアナ諸島海域に産卵しに行くのか、どうやってピンポイントのその場所に戻っていけるのか、詳しくはまだ解明されていません。
うなぎの生態についてはまだまだ謎が多いのが現状です。

うなぎ食文化の歴史

うなぎは私たち日本人にとって、なくてはならない食材です。 歴史をさかのぼると古くは約5000年前の縄文時代より、複数か所の貝塚から出土したうなぎの骨によって、私たちの先祖がすでにうなぎを食べていたことが分かります。

うなぎが文献に初めて登場したのは「万葉集」です。

大伴家持が作った短歌に、 「石麻呂に 吾(あれ)もの申す 夏痩せに よしという物ぞ むなぎ(鰻)とり召せ」 という一首があります。 意味は「石麻呂さんに私は申し上げます。夏痩せにいいという鰻という魚を採って食べなさい」というもの。万葉集の時代から、うなぎは夏痩せ(夏バテ)に効くと言われていたのですね!

昔はうなぎのことを「むなぎ」と呼んでいました。 由来としてはうなぎの胸が黄色いことからきたという説と、屋根の一番高い場所にある部材「棟木(むなぎ)」に形が似ているからという説の二種類があります。 日本で今の「うなぎ」と呼ばれるようになったのは鎌倉時代に入ってからです。

本格的にうなぎが庶民の食べ物として定着したのは江戸時代から。 徳川家康が江戸の街を開発する際に干拓で出来た湿地帯にうなぎが生息し始めたことから、うなぎを捕って食べるようになりました。 当時はうなぎをぶつ切りにして焼いたり、川魚のように小さなうなぎに串を打って塩焼きにしたりして食べていたそうです。

元禄時代(1700年~)に入ると、うなぎを今の蒲焼のように割いて骨をぬき、串を打って焼くようになりました。ただ味付けはみそや酢を使うのが主流です。

うなぎ蒲焼きの歴史

元禄時代の後半になると、千葉県の野田や銚子では、濃い口醤油の元祖・関東醤油の製造が始まりました。またもともとは甘いお酒として飲まれていたみりんですが、この頃から調味料として使われ始め、醤油と共にうなぎの蒲焼きの味付けに使われるようになったのです。

1760年頃にはうなぎの蒲焼きや蕎麦、天ぷらや寿司などいわゆる「日本食」と言われる日本料理の基礎が確立。 特にうなぎは屋台食の定番で、江戸っ子のファストフード的存在として人気がありました。

その人気ぶりは、うなぎの名店221軒をランキング付けした「江戸前大蒲焼番付」という紹介本が発行されたほど。 寿司などによく用いられる「江戸前」という名称は、もともとうなぎに使われていたとご存知でしたか? 当時は江戸前(隅田川沿いの蔵前・深川)で捕れたうなぎが上物とされていたため、江戸っ子たちはこぞって江戸前の蒲焼きを食べていたそうです。

うなぎの蒲焼きがどうして「蒲焼き」と言われたのかについては諸説あります。
* うなぎの焼けた皮の様子が、樺(かば)の木の幹に似ているからという説
* うなぎの焼けるいい匂いがよく行きわたるから「香疾焼(かばやき)」になった説
* 頭からしっぽに向かって串を刺して焼いた様子が植物の「蒲(がま)」の穂に似ているからという説
このうち、最後の蒲の穂の説が一番有力だとされています。

ところで、今では当たり前のように私たちは「土用の丑の日」にうなぎの蒲焼きを食べていますが、江戸時代にはすでに土用の丑の日にうなぎを食べる習慣があったのをご存知ですか? うなぎと土用の丑の日を結びつけたのは、狂歌師の大田蜀山もしくは、蘭学で有名な平賀源内と言われています。 どちらも夏にこってりしたうなぎの蒲焼きが売れずに困っていた店主から相談され、蜀山は「うなぎはからだにいい」という狂言を作ったという説と、源内が「店先に『本日は土用の丑の日』という張り紙を貼りなさい」とアドバイスしたという説があります。

うなぎ料理のいろいろ

うなぎがおいしく食べられるのは蒲焼きだけではありません。 うな丼も江戸時代から食べられるようになりました。 うな丼の起源として最も有力なのが、日本橋の芝居小屋で芝居の金主(資金を出す人)がごはんの上にうなぎの蒲焼きを乗せて客に売り始めたことが広まったという説です。 うな丼はごはんの湯気でうなぎが蒸され、一層柔らかくなるということで、うなぎの蒲焼きを使ったうな重と人気を二分するほどになりました。

愛知県名古屋市発祥のうなぎ料理には「ひつまぶし」があります。 名前の由来は、料理が木のおひつに入れられていたことと、まぶして(混ぜて)食べていたことからきています。熱田神宮参道の「あつた蓬莱軒」がひつまぶし発祥の店と言われています。